同人音楽の感想みたいなレビューみたいなものを書いてます

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[考察・感想] 遙 / 凋叶棕 Part.1


(2011/08)
凋叶棕

公式サイト

長い記事になると思うので、一番最初に一番書きたいことを書いておきます。
今作『遙』は、私が今まで聴いた数百枚の東方アレンジ作品の中で一番好きです。
私の価値観において、現段階でこれ以上のアレンジ作品は存在しません。

私は作品のランク付けなんかはあんまり好きではないけど、この作品だけは特別です。
何故なら、これは到達点だから。
東方アレンジの歴史が生み出した、ひとつのピリオドの形です。


This CD is symbolically made from Curtain Fire Shooting Game. You don't have to wait until it is ready. Because Contents have already been prepared Even Lotus Paradise, everything will be changed as time goes by.

『遙』のCD盤面には、小さな文字で上記のような英文が書かれています。
作品の概要を説明した文章なんですが、まず注目すべきは最後のところ。
everything will be changed as time goes by.
すべてのものは時の経過にともなって変化する。
幻想郷は、擬似的ではありますが永遠性が保障された世界です。
博霊の巫女とスペルカードルール、予定調和的な異変解決のシステム。
少女の姿をした妖怪たちは何百年何千年生きているかも分からない。
季節は変わるしキャラも歳を取るけど、その大枠はほとんど揺るがないのが
幻想郷という世界。この作品は、そこにメスを入れています。
少々の時間経過で変わらないなら、大幅に経過させてしまえばいい。
ここで行われているのは、数学における「極限」のような手法でしょう。
幻想郷という関数があり、その中の時間という変数を、無限大まで持っていく。
そのプロセスの果てに、どういう値に収束するか・・・それをシミュレートしたのが
この『遙』という作品です。なんか回りくどい表現になりましたが要するに、
幻想郷の最果て、終末を二次創作で表現したものと捉えればいいでしょう。

とりあえず概要はここまでに留めておいて、今回は1曲ずつ詳細に見ていきましょう。


01-ささぐうた -ヒガン・ルトゥール・シンフォニー-
こういう作品は終点以上に起点を決めるのが難しいと思うのですが、今作の起点たる
この曲は「人間の死」をうたっている。星、天などのワードが散りばめられてる点や
ブックレットの絵から具体的には魔理沙の死、でしょうか。幻想郷の永遠性というものを
崩そうとすれば、まず最初に脱落するのは寿命の短い人間になるのは当然だし、
ここを起点にするのは大いに納得が行きます。それにしても魔理沙が死んだり老いたりする
二次創作はいくつか見かけたことはありますが、それを最初に持ってくるのを見たのは
これが初めて。この作品がいかに遠くを見ているか、というのが良く分かるというものです。
あと、小町を使って「輪廻」を題材に持ってきてるのも見逃せません。輪廻という概念は
この曲の上では人間に対して用いられているけど、最後まで聴けば、それが作品全体に
渡って利いているものだというのが分かるはず。そういう意味でも、これが1曲目にある
意義はとても大きい。「いつの日か翔けろよ 天を」という小町の激励は果たして
誰に向けられたものなのでしょうか。人か、魔理沙か、それとも・・・

02-伝説のユグドラシル
インスト曲ゆえ考察をしようにもなかなか難しいのですが、しかしこの曲名には
引っかかりを覚えます。ユグドラシル、という単語。私とて東方の設定周りを
すべて把握してるわけじゃないのではっきりとは分かりませんが、少なくとも
私の知識内において、幻想郷にユグドラシル、ないしは世界樹に該当するような
存在はなかったと思います。しかし、それは「現在」の幻想郷の話。
世界樹、ユグドラシル・・・いずれもファンタジーではよく出てくる題材です。
同人音楽においても民族音楽との相性の良さもあり、しばしば使われていますよね。
ならば、近い未来・・・現在の流行が廃れたとき、「ユグドラシル」が幻想郷に
流れ着く可能性は十分に考えられるのではないでしょうか。ゆえにこの、
「伝説のユグドラシル」という曲名は、ここで描かれる幻想郷が未来のものである
ことを示唆しているものと考えられます。ある日突然、妖怪の山に巨大な樹が出現する、
なんて異変はいかにもありそうです。民族風にアレンジされた曲調、適度に崩された
原曲のメロディ。今とは少し違った妖怪の山の風景に思いを馳せてみてはいかがでしょう。

03-Cruel CRuEL
Cruel・狂える。故郷の月への罪悪感に苛まれるうどんげちゃん。
全体的に救いがないと言われる今作においてはまだマシなほうですね。
鈴仙が後悔と罪悪感を抱えて生きていることは原作中でも描かれているため、
この後の曲に比べれば原作準拠な「終わり方」をしていると言えます。
「私は狂えるのか」と自問できてる時点でネガポジやdevastatorよりも全然・・・ね。
ただ、鈴仙って「成長要素がないキャラ」ってイメージが個人的にあって、
この話にしても「その後」がまったく想像できないんですよね。原作の時点で
彼女は終着点に来てしまっている。自らの影と巨大に歪められた月に挟まれた
ブックレットのうどんげちゃん。あの絵のように、彼女はきっとこの先も
どこにも動けずに終わるのでしょう。時間経過による歪みが少ないからこそ、
早めの曲順に置かれてるんだろうけど、これはこれでやっぱり残酷な話。

04-弦奏交響曲「ポイズンボディ」
特徴が少なく、解釈が難しい曲です。弦奏交響曲というのは『宴』のころから
シリーズ化されてるお約束の曲名だし、アレンジとしても比較的シンプルな作り。
他と比べてどうにも平坦な印象を受けるんですよね。それでもあえて解釈に挑むならば、
メディスン・メランコリーというキャラの「背景の無さ」がポイントになるかもしれません。
彼女は他の妖怪と異なり、生まれて数年しか経っていない幼い妖怪です。
ゆえに設定上のバックグラウンドや他キャラとの関係性が極端に乏しい。
この作品がもたらす荒廃は、時間経過によるキャラ同士の関係性の磨耗や破綻によって
引き起こされているので、それがないメディスンには影響がなかったのかもしれません。
そういう意味では彼女は「キャラ」というよりは「風景」みたいな扱いなのかも。
だからこそのインスト曲なのでしょう。毒花畑にひっそり佇む毒人形の「風景」。
破綻も荒廃もないかわりに背景と同化した彼女は、ある意味では幸福なのかもしれません。

05-NeGa/PoSi*ラブ/コール
ヤンデレ化したこいしちゃんが暴走の果てにデッドエンドする話。
普通に読めば何の救いもない話ですが、『遙』で描かれる世界にあって、
こいしの未来とその末路を想像すればなるほどこうなるわな、という感じではあります。
『遙』の世界は幻想郷の荒廃と永遠が描かれた未来の世界。「ささぐうた」では
人間の死と輪廻が描かれ、「悠久の子守唄」では博霊の巫女の代変わりが描かれます。
地霊殿EXでこいしが出会い、初めて彼女に「目的」を認識させた異端の人間たちもまた、
幻想郷の予定調和を構成するパーツにすぎない。彼女の閉ざされた瞳と同様に、
この世界もまたどうしようもなく閉じている・・・こんな認識がこいしに芽生えたとき、
その絶望が唯一の身内であるさとりに向かうのは何となく分かる気がします。
曲中でこいしがしきりに唱える「アイ」という言葉。これはおそらく、
愛(=さとりの笑顔)とeye(=第三の瞳)とI(=アイデンティティ)、
すべての意味が込められています。「アイ」さえ得られれば、自分が失ったものが
きっと全部帰ってくると、必死にその幻想にしがみついているのでしょう。
もちろんすべてを含んだ「アイ」なんてのは言葉遊びの産物でしかなく、
そんな都合のいいものは存在しません。アイとは「i」・・・虚数のように儚い概念。
架空のアイに溺れた挙句さとりにもらったペット達を虐殺し「笑ってよねえ」と
さとりに迫り拒絶され壮絶な最期を迎えるこいし。普通に読めば悲惨な結末ですね。
「普通に読めば」ね・・・。

06-盲目の笑顔
うわあ・・・。ネガポジで酷い結末を描いておいてさらにこの追い討ちですよ。
この鬼!と言いたくもなるが、しかしどうしようもなく滅びの美学を感じてしまうのも
また事実。ゴシック調のアレンジと心の内で反響する悲鳴のようなクワイア・・・
退廃美とはこういうことなんでしょう。痛々しく縫い付けられた瞳と血痕、
それとは対照的にやわらかな微笑みを浮かべるさとりの姿は寒気がするほど美しい。
さとりが自身のことを「幸せです」と言ってしまっている時点で
この話はどうしようもなく終わっているんですよね。
凍る時間。永遠の静寂。古明地姉妹、そして地底世界の終わり。
前半部を締めくくるに相応しいどうしようもないラストですね!(満面の笑み)

07-あの日自分が出て行ってやっつけた時のことをまだ覚えている人の為に
インスト曲ですが、この曲が無ければ作品が成立しないと言っても過言ではないくらいの
超重要曲。位置付けとしては「悠久の子守唄」の前奏曲で、一線を退いた博霊の巫女が
過去を回想してる場面なんでしょうが、ここにラストワードの順番を模したメドレー形式の
アレンジをぶち込んでくるセンスが異常。最初聴いたときは「やりやがった!」って
思いましたね。これはただの回想ではありません。この曲こそが「極限」の発生装置。
ここまでに描かれてきたいくつかの終わりの形、それらがあるからこそ、メドレーで
次々と流れていく原曲のメロディに物語が付加される。ラストワードとは「遺言」という意味。
つまりは、ひとつひとつの原曲に対して作者がいちいち物語を設定せずとも、
聴き手が勝手に各曲の「終わり」を想像してしまうのです。「終末」の自動生成機構。
さらに中盤・・・よりによって「少女綺想曲」のところからメドレーパートが副旋律に
引っ込み、代わりに「東方妖怪小町」が主旋律に現れる。で、この主旋律、どう聴いても
「悠久の子守唄」のメロディが混合されています。それはつまり、個々の原曲が
紡ぐはずの物語を「悠久」が塗り潰している、ということ。
言うなればそれは、終末の一般化。 n=1,2,3......k の「......k」の表現です。
この曲があるからこそ、今作は「未来」から「永遠」へとステージを上げることが
できる。これだけの要素をインストで表現し切ったのはとんでもないことだと思います。
凋叶棕のアレンジスキル、センスが遺憾なく発揮された文句なしの会心の一曲。

08-悠久の子守唄
暴風のように流れ去る時の流れの中で、この瞬間だけは停止しているかのように
ゆったりと落ち着いた曲調。描かれた二人の巫女はどっちが霊夢、とかいう話ではなく、
「博霊の巫女とその後継」と判断すればいいでしょう。式は既に一般化されているのだから。
おそらくこの物語は幻想郷そのものが終わるその日まで、何回も何回も何回も何回も
繰り返されるのでしょう。そうして永遠を紡ぎだす。終わりがないのが終わり。
これもまた、極限を生み出すひとつのパーツですね。

09-そしていつかまた出逢って
前曲の流れから、成長した博霊の巫女の後継者が妖怪退治に乗り出す、
そして先代巫女が退治した妖怪たちとまた出逢う・・・って感じでしょうか。
中盤あたりに「悠久の子守唄」のメロディもぽつんと出てくるし。
この曲もまた「一般化」の後なので、誰と出会うかを考えることにあまり意味はないと
思います。原曲が原曲だし、イメージとしてはやはり幽香が浮かびますけどね。
しかし、妖怪視点でこの曲を考えたとき、彼女らは数十年のスパンで
次々と代変わりする博霊の巫女と何度も何度も何度も対峙することになるわけで、
そのときどういう感傷が湧くのだろう、と思うとなんとも虚しい気分になります。
7~9曲目はこの3曲で博霊の巫女を中心とした小さな円環ができています。
ここをぐるぐる廻り続けることで、永遠が作り出され、そして
「遙かなるもの」その極限へと至るのです。

10-devastator
devastator(破壊者)・・・無限の時の流れは、輝夜すらも破壊する。
永遠を手中にした蓬莱人ですらも完膚なきにまで破壊し尽くすこの曲は、
間違いなく今作が見せる「最果て」のひとつの姿です。輝夜が壊れた以上、
他の者たちがまともでいられるとは思えない。『遙』が見せる果ては、
世界から「キャラクター」を完全に排除した姿です。残ったものは、幻想郷の風景のみ。
「幻想郷の風景」がテーマみたいなことが書いてあるけど、やっていることは
「それ以外」のすべての破壊です。消去法的に残った「風景」それは果たして
ユートピアなのか、それともディストピアなのか・・・


さて、まだ2曲残ってますが切りがいいのでここで一旦筆を置きます。
というのも、「devastator」まででこの作品はひとつの完結が与えられているのです。
『遙』がはじき出した極限値のひとつ、それが「幻想郷の風景」。
これはこれで綺麗な結末です。しかし、今作に関してはそこがもうひとつの始まり。
この作品に関する感想や評価を見ていると「あまりに救いがなさすぎる」という
意見がちらほら見られました。確かにここで描かれるキャラたちの結末は悲惨です。
一切の容赦がない。けれど、考えてみてほしいのです。

凋叶棕は、何故かような「荒廃の未来」を描く必要があったのか?

ここまでの内容は布石にすぎません。
「Aurora」「うつろわざるもの」が見せる、もうひとつの果ての姿。
それこそが、私がこの作品を「一番」とみる最大の要因なのです。

Part.2に続く...
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2012/03/28(水) 02:06 | | #[ 編集]
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