同人音楽の感想みたいなレビューみたいなものを書いてます

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

[考察・感想] 遙 / 凋叶棕 Part.2


(2011/08)
凋叶棕

公式サイト


更新が遅くなりましたが、Part.1の続きです。
前回は「devastator」までの曲にざっと触れ、時の流れが幻想郷を
荒廃させるさまを見ていきました。今回は「うつろわざるもの」を中心に
作品の主題について考えていきましょう。
凋叶棕は、何故かような「荒廃の未来」を描く必要があったのか?
ずいぶん書くのに時間がかかりましたが、これが決定稿。私なりの答えです。



◆「うつろいゆくもの」比那名居天子

言うまでもないことですが、「うつろわざるもの」の主人公(視点人物)は
比那名居天子です。ブックレットにも天子の絵が描かれているし、原曲の有頂天変や
幼心地の緋想天はまさしく天子のテーマと言うべきものです。
これまでの楽曲に照らしてみても、この曲が「天子の物語」であるということは、
なるほど疑いないように見えます。

しかし、この曲中における「私(=天子)」なる人物は、他のキャラクターにはない
ある特権が与えられています。それは、観測者の立場です。
「星はきっとまた~」あたりの歌詞を見れば分かるとおり、彼女はそれまでの
『遙』の世界を観測してきています。ただし前回触れたとおり『遙』の世界には
全てを移ろわせ荒廃させる、巨大な「時の流れ」というファクターがあります。
にも関わらず、この「私」はそれまでの物語を均等に見渡していて、しかも本人は
まるでその影響を受けていない。彼女は『遙』の世界において、ひとり特権的な、
観測者として独立したキャラクターになっているわけですね。
しかし、ではなぜ比那名居天子にこのような役割が当てられているのでしょう。
原作の設定において、天子がこのような超越者になる要素があったでしょうか?
というより、そもそも「私」とは本当に「比那名居天子」なのでしょうか?

「私」を比那名居天子とする根拠は先ほど述べたとおり、絵と原曲です。
ところがこの「私」が比那名居天子であるとは、実際にはどこにも書かれていません。
聴き手が、絵と原曲を見て勝手に判断しているに過ぎません。なぜそう判断できるのか?
それはこの作品が「二次創作」だからですよ。二次創作だと分かっているからこそ、
青く長い髪で桃のついた帽子を被っている少女を見れば「天子だ」と判断し、
有頂天変のメロディが流れてくれば「天子の曲だ」と判断する。
ただそれだけのことで「私」=比那名居天子と判断してしまう。
そして『遙』という作品はそういう思い込みを逆手に取っているんです。
それを端的に示しているのがここの歌詞。

遙かな 見上げる天空に 私であったものを捧ぐ

ブックレットの絵のなかで、彼女は帽子を空へ飛ばしています。
天子にとって帽子というのは、彼女を「天子だ」と判断させることのできる
識別コードのようなものです。桃のついたああいう帽子を被ってるキャラなんて
たぶん比那名居天子くらいしかいないでしょう。
彼女はそれを天空に向かって捧げています。「私であったもの」と称して。
言い換えれば、彼女は自身の「比那名居天子」を構成するパーツを過去のものとして
切り離している。では、切り離した後に残る「私」は一体何者なんでしょう?
まあ、捧げるものが帽子だけなら、服装とか髪の色とか緋想の剣とかで
彼女を天子と判断することはできます。でも、仮にそれらもどんどん捧げていったら
どうなるでしょう。緋想の剣を手放したら?服装が変わったら?
髪が短くなったら?髪の色が赤くなったら?
私たちはどこまで彼女を「比那名居天子」と認識できるでしょうか。
どこまで変われば彼女は「比那名居天子」でなくなるのでしょうか。
この曲の「私」もまた極限なんです。比那名居天子の、なれの果て。
うつろいゆく『遙』の世界を観測してきた彼女自身もまた、うつろいゆくもの。

でもね、実際には彼女はどこまで変異しても比那名居天子でなくなることは
ないんですよ。なぜならば、この世界には「うつろわざるもの」があるから。
「うつろわざるもの」とは平たく言ってしまえば原作のことです。
原作の存在が、<これは二次創作である>という宣言が、彼女を天子たらしめている。
「うつろいゆくもの」たちは、いつだって「うつろわざるもの」の庇護のもとにある。

最後に遺った、変わらない全ての根源こそが。
この目の前に、美しくも残酷に。


二次創作の果て、その先に残ったものは原作でした、と。なるほど美しい帰結です。
しかし同時に、これほど残酷なものはないと描いているのがこの作品のミソ。
「うつろわざるもの」で彼女が立っている地は、きっといちばん天に近い場所だけど、
だからといって決して天に辿り着くことはできません。
しょせんは二次創作なんですよ。



◆『遙』が求める決断と、「私」が下した結論

さて、ここまで長々と勿体つけて書きましたが、要約すればこの作品は二次創作が
原作に従属している、というだけの話であり、内容自体は当たり前のことなんですよ。
大事なのは、この先のこと。この内容を受けて、どう考えるかです。

為しえることがもう、それ以上ないなら、
きっとそれは完結なのではないか?


『遙』が描く幻想郷の「果て」の姿は、すなわち二次創作の「果て」の姿でもあります。
地上で何が起ころうと、天空は変わらず存在し続ける。
どんな二次創作を作ろうと、その上には必ず原作がある。
やり尽くせば、あとは枯れるのみ。不毛なんですよ。
東方アレンジが始まって10年くらい経った今。この「原則」は次第に重みを増してくるでしょう。
しかし凋叶棕はあえて「この先には荒廃しかないよ」「最後には原作しか残らないよ」と
喉元に刃を突きつけます。もちろんその刃は、彼ら自身にも向いた諸刃の剣。
シミュレートされた「終わり」の形を巡ってきた「私」は、
このまま自身もシミュレートに従って滅ぶのか?やはり最後には<風景>しか残らない?
この終末のカタチを受け入れるのか、それとも抗うのか。
『遙』という作品が求めるもの、それは決断。
そして「うつろわざるもの」の最後で「私」はこう答えを出しています。

遙かな
変わらぬものを
うつろわざるものを抱いて
全てを
受け入れながら 私は此処に居る


「うつろわざるもの」を抱き、全てを受け入れる。
「私」はこの終末のカタチを受け入れ、物語は幕を閉じます。
最後に残ったものは「うつろわざるもの」だけでした。めでたしめでたし・・・?

いやね、ちょっと待ってほしい。
この作品の終わりはね、「うつろわざるもの」だけじゃないんですよ。続きがまだある。
CDは円盤。この作品の結末は、1周ループして辿り着く場所・・・「ささぐうた」にあるんです。
「うつろわざるもの」を経た上で、「私」の決断を理解した上で、あえてもう一度問いましょう。

さて、これはいったい誰に対しての「ささぐうた」だったのでしょうか?


いつの日か 翔けろよ天を


そう、この物語を最後まで見届けた者ならば、「天」という言葉が指すものが
とても重い意味に変わっているはず。天。見上げるだけで決して到達できないあの天空。
小町さんはそれでもそこを翔けろと仰るんですよ。無茶言いやがる!
でもね、私はこういうのは嫌いじゃない。
『遙』が導く「果て」、その先にあるものは、終末でも絶望でも諦観でもありません。
抗いですよ。二次創作への賛歌ですよ。



◆ そして、これから

私はね、二次創作が大好きなんですよ。
原作に対する愛全開ではしゃぎまくっている作品が大好きだし、
制作者の思惑丸出しで原作を好き勝手弄くり回して自分語りしてる作品も大好きだし、
性欲のはけ口に愛らしいキャラクターを陵辱しまくってる作品だって大好きです。
何より、誰も予想しないところから世界が無尽蔵に膨れ上がっていくあの感じが
大好きなんです。東方の二次創作がこんなに続くなんて、一体誰が予測できたでしょう。
東方アレンジだってそう。「アレンジ」の枠に囚われない、自由な発想の作品が
ここ2年くらいの間でどんどん出てきています。原曲を一切使わない完全な
イメージアルバムとかね。凋叶棕だってハッキリ言ってかなりのキワモノですよ。
歌メロに原曲ほとんど出てこないし、黎明期あたりにこのサークルがあったとしても
こんなに人気は出なかったと思います。凋叶棕がここまで人気が出たのは、もちろん
作者やアイデアのセンスが優れていたのもあるだろうけど、リスナーがアレンジ作品に
慣れていた(あるいは飽きていた)ことも大きかったと思うんです。
偉そうな言い方になりますけど、作り手も聴き手も、たしかに成長していると
ここ最近感じてるんですよね。この界隈は、まだまだ停滞するには早い。
だから、この『遙』って作品は、そうやって続いてきた東方アレンジの結晶というか、
ひとつの到達点、って印象がありましてね。二次創作とは何か、ということを
あらためて考えさせてもらうきっかけになりましてね。
そういう私自身の色々な思いもあって、この作品は私にとっての特別なんです。
一番なんです。これはね、東方アレンジに対する、私自身の決算なんですよ。
この作品を聴いて、私の中の東方は確かに一度終わって、そしてまた始まりました。
まだまだ終わらないし、終わらせませんよ、東方は。二次創作は。

そしてもちろん凋叶棕だってまだまだこんなところで留まる気配は見せません。
この次の作品、『綴』は、自らのこれまでの軌跡を綴る、これまた決算のような
作品ですが、その最後のボーカル曲「その扉の向こうに」には
こんなフレーズがあります。

―おとなになる、ということが、どんなにつらいことでも、
わたしはきっとあきらめないから。


『遙』における「私」(天子)と『綴』における「わたし」(アリス)は
どちらも作品を俯瞰する立場にあり、非常に近い立ち位置の存在です。
また、『遙』における「果て」と『綴』における「おとな」も近いニュアンスがある。
私には綴のアリスは天子が転生したようにも感じられたわけですが、しかし
両者が出した結論は少し違っています。「果て」を見てそのまま受け入れた天子と、
「おとな」を夢見て傷つきながらもそれを目指すアリス。
この変化こそが、『遙』に対する凋叶棕の「決断」だと思うんですよね。
『遙』の終わりはあくまでシミュレーション。
『綴』から始まる凋叶棕のこれからには、きっとまた別の「果て」が描かれるでしょう。
まだまだ終わらないし、終わらせませんよ、東方は。二次創作は。
これからです。





ありがとうございました。
これからもよろしくおねがいします。
コメント
承認待ちコメント
このコメントは管理者の承認待ちです
2013/06/23(日) 12:06 | | #[ 編集]
承認待ちコメント
このコメントは管理者の承認待ちです
2014/03/18(火) 19:49 | | #[ 編集]
コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する
プロフィール

borozo

Author:borozo

最近の記事
カテゴリー

openclose

ブログ内検索
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。