同人音楽の感想みたいなレビューみたいなものを書いてます

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[考察・感想] 遙 / 凋叶棕 Part.2


(2011/08)
凋叶棕

公式サイト


更新が遅くなりましたが、Part.1の続きです。
前回は「devastator」までの曲にざっと触れ、時の流れが幻想郷を
荒廃させるさまを見ていきました。今回は「うつろわざるもの」を中心に
作品の主題について考えていきましょう。
凋叶棕は、何故かような「荒廃の未来」を描く必要があったのか?
ずいぶん書くのに時間がかかりましたが、これが決定稿。私なりの答えです。



◆「うつろいゆくもの」比那名居天子

言うまでもないことですが、「うつろわざるもの」の主人公(視点人物)は
比那名居天子です。ブックレットにも天子の絵が描かれているし、原曲の有頂天変や
幼心地の緋想天はまさしく天子のテーマと言うべきものです。
これまでの楽曲に照らしてみても、この曲が「天子の物語」であるということは、
なるほど疑いないように見えます。

しかし、この曲中における「私(=天子)」なる人物は、他のキャラクターにはない
ある特権が与えられています。それは、観測者の立場です。
「星はきっとまた~」あたりの歌詞を見れば分かるとおり、彼女はそれまでの
『遙』の世界を観測してきています。ただし前回触れたとおり『遙』の世界には
全てを移ろわせ荒廃させる、巨大な「時の流れ」というファクターがあります。
にも関わらず、この「私」はそれまでの物語を均等に見渡していて、しかも本人は
まるでその影響を受けていない。彼女は『遙』の世界において、ひとり特権的な、
観測者として独立したキャラクターになっているわけですね。
しかし、ではなぜ比那名居天子にこのような役割が当てられているのでしょう。
原作の設定において、天子がこのような超越者になる要素があったでしょうか?
というより、そもそも「私」とは本当に「比那名居天子」なのでしょうか?

「私」を比那名居天子とする根拠は先ほど述べたとおり、絵と原曲です。
ところがこの「私」が比那名居天子であるとは、実際にはどこにも書かれていません。
聴き手が、絵と原曲を見て勝手に判断しているに過ぎません。なぜそう判断できるのか?
それはこの作品が「二次創作」だからですよ。二次創作だと分かっているからこそ、
青く長い髪で桃のついた帽子を被っている少女を見れば「天子だ」と判断し、
有頂天変のメロディが流れてくれば「天子の曲だ」と判断する。
ただそれだけのことで「私」=比那名居天子と判断してしまう。
そして『遙』という作品はそういう思い込みを逆手に取っているんです。
それを端的に示しているのがここの歌詞。

遙かな 見上げる天空に 私であったものを捧ぐ

ブックレットの絵のなかで、彼女は帽子を空へ飛ばしています。
天子にとって帽子というのは、彼女を「天子だ」と判断させることのできる
識別コードのようなものです。桃のついたああいう帽子を被ってるキャラなんて
たぶん比那名居天子くらいしかいないでしょう。
彼女はそれを天空に向かって捧げています。「私であったもの」と称して。
言い換えれば、彼女は自身の「比那名居天子」を構成するパーツを過去のものとして
切り離している。では、切り離した後に残る「私」は一体何者なんでしょう?
まあ、捧げるものが帽子だけなら、服装とか髪の色とか緋想の剣とかで
彼女を天子と判断することはできます。でも、仮にそれらもどんどん捧げていったら
どうなるでしょう。緋想の剣を手放したら?服装が変わったら?
髪が短くなったら?髪の色が赤くなったら?
私たちはどこまで彼女を「比那名居天子」と認識できるでしょうか。
どこまで変われば彼女は「比那名居天子」でなくなるのでしょうか。
この曲の「私」もまた極限なんです。比那名居天子の、なれの果て。
うつろいゆく『遙』の世界を観測してきた彼女自身もまた、うつろいゆくもの。

でもね、実際には彼女はどこまで変異しても比那名居天子でなくなることは
ないんですよ。なぜならば、この世界には「うつろわざるもの」があるから。
「うつろわざるもの」とは平たく言ってしまえば原作のことです。
原作の存在が、<これは二次創作である>という宣言が、彼女を天子たらしめている。
「うつろいゆくもの」たちは、いつだって「うつろわざるもの」の庇護のもとにある。

最後に遺った、変わらない全ての根源こそが。
この目の前に、美しくも残酷に。


二次創作の果て、その先に残ったものは原作でした、と。なるほど美しい帰結です。
しかし同時に、これほど残酷なものはないと描いているのがこの作品のミソ。
「うつろわざるもの」で彼女が立っている地は、きっといちばん天に近い場所だけど、
だからといって決して天に辿り着くことはできません。
しょせんは二次創作なんですよ。



◆『遙』が求める決断と、「私」が下した結論

さて、ここまで長々と勿体つけて書きましたが、要約すればこの作品は二次創作が
原作に従属している、というだけの話であり、内容自体は当たり前のことなんですよ。
大事なのは、この先のこと。この内容を受けて、どう考えるかです。

為しえることがもう、それ以上ないなら、
きっとそれは完結なのではないか?


『遙』が描く幻想郷の「果て」の姿は、すなわち二次創作の「果て」の姿でもあります。
地上で何が起ころうと、天空は変わらず存在し続ける。
どんな二次創作を作ろうと、その上には必ず原作がある。
やり尽くせば、あとは枯れるのみ。不毛なんですよ。
東方アレンジが始まって10年くらい経った今。この「原則」は次第に重みを増してくるでしょう。
しかし凋叶棕はあえて「この先には荒廃しかないよ」「最後には原作しか残らないよ」と
喉元に刃を突きつけます。もちろんその刃は、彼ら自身にも向いた諸刃の剣。
シミュレートされた「終わり」の形を巡ってきた「私」は、
このまま自身もシミュレートに従って滅ぶのか?やはり最後には<風景>しか残らない?
この終末のカタチを受け入れるのか、それとも抗うのか。
『遙』という作品が求めるもの、それは決断。
そして「うつろわざるもの」の最後で「私」はこう答えを出しています。

遙かな
変わらぬものを
うつろわざるものを抱いて
全てを
受け入れながら 私は此処に居る


「うつろわざるもの」を抱き、全てを受け入れる。
「私」はこの終末のカタチを受け入れ、物語は幕を閉じます。
最後に残ったものは「うつろわざるもの」だけでした。めでたしめでたし・・・?

いやね、ちょっと待ってほしい。
この作品の終わりはね、「うつろわざるもの」だけじゃないんですよ。続きがまだある。
CDは円盤。この作品の結末は、1周ループして辿り着く場所・・・「ささぐうた」にあるんです。
「うつろわざるもの」を経た上で、「私」の決断を理解した上で、あえてもう一度問いましょう。

さて、これはいったい誰に対しての「ささぐうた」だったのでしょうか?


いつの日か 翔けろよ天を


そう、この物語を最後まで見届けた者ならば、「天」という言葉が指すものが
とても重い意味に変わっているはず。天。見上げるだけで決して到達できないあの天空。
小町さんはそれでもそこを翔けろと仰るんですよ。無茶言いやがる!
でもね、私はこういうのは嫌いじゃない。
『遙』が導く「果て」、その先にあるものは、終末でも絶望でも諦観でもありません。
抗いですよ。二次創作への賛歌ですよ。



◆ そして、これから

私はね、二次創作が大好きなんですよ。
原作に対する愛全開ではしゃぎまくっている作品が大好きだし、
制作者の思惑丸出しで原作を好き勝手弄くり回して自分語りしてる作品も大好きだし、
性欲のはけ口に愛らしいキャラクターを陵辱しまくってる作品だって大好きです。
何より、誰も予想しないところから世界が無尽蔵に膨れ上がっていくあの感じが
大好きなんです。東方の二次創作がこんなに続くなんて、一体誰が予測できたでしょう。
東方アレンジだってそう。「アレンジ」の枠に囚われない、自由な発想の作品が
ここ2年くらいの間でどんどん出てきています。原曲を一切使わない完全な
イメージアルバムとかね。凋叶棕だってハッキリ言ってかなりのキワモノですよ。
歌メロに原曲ほとんど出てこないし、黎明期あたりにこのサークルがあったとしても
こんなに人気は出なかったと思います。凋叶棕がここまで人気が出たのは、もちろん
作者やアイデアのセンスが優れていたのもあるだろうけど、リスナーがアレンジ作品に
慣れていた(あるいは飽きていた)ことも大きかったと思うんです。
偉そうな言い方になりますけど、作り手も聴き手も、たしかに成長していると
ここ最近感じてるんですよね。この界隈は、まだまだ停滞するには早い。
だから、この『遙』って作品は、そうやって続いてきた東方アレンジの結晶というか、
ひとつの到達点、って印象がありましてね。二次創作とは何か、ということを
あらためて考えさせてもらうきっかけになりましてね。
そういう私自身の色々な思いもあって、この作品は私にとっての特別なんです。
一番なんです。これはね、東方アレンジに対する、私自身の決算なんですよ。
この作品を聴いて、私の中の東方は確かに一度終わって、そしてまた始まりました。
まだまだ終わらないし、終わらせませんよ、東方は。二次創作は。

そしてもちろん凋叶棕だってまだまだこんなところで留まる気配は見せません。
この次の作品、『綴』は、自らのこれまでの軌跡を綴る、これまた決算のような
作品ですが、その最後のボーカル曲「その扉の向こうに」には
こんなフレーズがあります。

―おとなになる、ということが、どんなにつらいことでも、
わたしはきっとあきらめないから。


『遙』における「私」(天子)と『綴』における「わたし」(アリス)は
どちらも作品を俯瞰する立場にあり、非常に近い立ち位置の存在です。
また、『遙』における「果て」と『綴』における「おとな」も近いニュアンスがある。
私には綴のアリスは天子が転生したようにも感じられたわけですが、しかし
両者が出した結論は少し違っています。「果て」を見てそのまま受け入れた天子と、
「おとな」を夢見て傷つきながらもそれを目指すアリス。
この変化こそが、『遙』に対する凋叶棕の「決断」だと思うんですよね。
『遙』の終わりはあくまでシミュレーション。
『綴』から始まる凋叶棕のこれからには、きっとまた別の「果て」が描かれるでしょう。
まだまだ終わらないし、終わらせませんよ、東方は。二次創作は。
これからです。





ありがとうございました。
これからもよろしくおねがいします。

[考察・感想] 遙 / 凋叶棕 Part.1


(2011/08)
凋叶棕

公式サイト

長い記事になると思うので、一番最初に一番書きたいことを書いておきます。
今作『遙』は、私が今まで聴いた数百枚の東方アレンジ作品の中で一番好きです。
私の価値観において、現段階でこれ以上のアレンジ作品は存在しません。

私は作品のランク付けなんかはあんまり好きではないけど、この作品だけは特別です。
何故なら、これは到達点だから。
東方アレンジの歴史が生み出した、ひとつのピリオドの形です。


This CD is symbolically made from Curtain Fire Shooting Game. You don't have to wait until it is ready. Because Contents have already been prepared Even Lotus Paradise, everything will be changed as time goes by.

『遙』のCD盤面には、小さな文字で上記のような英文が書かれています。
作品の概要を説明した文章なんですが、まず注目すべきは最後のところ。
everything will be changed as time goes by.
すべてのものは時の経過にともなって変化する。
幻想郷は、擬似的ではありますが永遠性が保障された世界です。
博霊の巫女とスペルカードルール、予定調和的な異変解決のシステム。
少女の姿をした妖怪たちは何百年何千年生きているかも分からない。
季節は変わるしキャラも歳を取るけど、その大枠はほとんど揺るがないのが
幻想郷という世界。この作品は、そこにメスを入れています。
少々の時間経過で変わらないなら、大幅に経過させてしまえばいい。
ここで行われているのは、数学における「極限」のような手法でしょう。
幻想郷という関数があり、その中の時間という変数を、無限大まで持っていく。
そのプロセスの果てに、どういう値に収束するか・・・それをシミュレートしたのが
この『遙』という作品です。なんか回りくどい表現になりましたが要するに、
幻想郷の最果て、終末を二次創作で表現したものと捉えればいいでしょう。

とりあえず概要はここまでに留めておいて、今回は1曲ずつ詳細に見ていきましょう。


01-ささぐうた -ヒガン・ルトゥール・シンフォニー-
こういう作品は終点以上に起点を決めるのが難しいと思うのですが、今作の起点たる
この曲は「人間の死」をうたっている。星、天などのワードが散りばめられてる点や
ブックレットの絵から具体的には魔理沙の死、でしょうか。幻想郷の永遠性というものを
崩そうとすれば、まず最初に脱落するのは寿命の短い人間になるのは当然だし、
ここを起点にするのは大いに納得が行きます。それにしても魔理沙が死んだり老いたりする
二次創作はいくつか見かけたことはありますが、それを最初に持ってくるのを見たのは
これが初めて。この作品がいかに遠くを見ているか、というのが良く分かるというものです。
あと、小町を使って「輪廻」を題材に持ってきてるのも見逃せません。輪廻という概念は
この曲の上では人間に対して用いられているけど、最後まで聴けば、それが作品全体に
渡って利いているものだというのが分かるはず。そういう意味でも、これが1曲目にある
意義はとても大きい。「いつの日か翔けろよ 天を」という小町の激励は果たして
誰に向けられたものなのでしょうか。人か、魔理沙か、それとも・・・

02-伝説のユグドラシル
インスト曲ゆえ考察をしようにもなかなか難しいのですが、しかしこの曲名には
引っかかりを覚えます。ユグドラシル、という単語。私とて東方の設定周りを
すべて把握してるわけじゃないのではっきりとは分かりませんが、少なくとも
私の知識内において、幻想郷にユグドラシル、ないしは世界樹に該当するような
存在はなかったと思います。しかし、それは「現在」の幻想郷の話。
世界樹、ユグドラシル・・・いずれもファンタジーではよく出てくる題材です。
同人音楽においても民族音楽との相性の良さもあり、しばしば使われていますよね。
ならば、近い未来・・・現在の流行が廃れたとき、「ユグドラシル」が幻想郷に
流れ着く可能性は十分に考えられるのではないでしょうか。ゆえにこの、
「伝説のユグドラシル」という曲名は、ここで描かれる幻想郷が未来のものである
ことを示唆しているものと考えられます。ある日突然、妖怪の山に巨大な樹が出現する、
なんて異変はいかにもありそうです。民族風にアレンジされた曲調、適度に崩された
原曲のメロディ。今とは少し違った妖怪の山の風景に思いを馳せてみてはいかがでしょう。

03-Cruel CRuEL
Cruel・狂える。故郷の月への罪悪感に苛まれるうどんげちゃん。
全体的に救いがないと言われる今作においてはまだマシなほうですね。
鈴仙が後悔と罪悪感を抱えて生きていることは原作中でも描かれているため、
この後の曲に比べれば原作準拠な「終わり方」をしていると言えます。
「私は狂えるのか」と自問できてる時点でネガポジやdevastatorよりも全然・・・ね。
ただ、鈴仙って「成長要素がないキャラ」ってイメージが個人的にあって、
この話にしても「その後」がまったく想像できないんですよね。原作の時点で
彼女は終着点に来てしまっている。自らの影と巨大に歪められた月に挟まれた
ブックレットのうどんげちゃん。あの絵のように、彼女はきっとこの先も
どこにも動けずに終わるのでしょう。時間経過による歪みが少ないからこそ、
早めの曲順に置かれてるんだろうけど、これはこれでやっぱり残酷な話。

04-弦奏交響曲「ポイズンボディ」
特徴が少なく、解釈が難しい曲です。弦奏交響曲というのは『宴』のころから
シリーズ化されてるお約束の曲名だし、アレンジとしても比較的シンプルな作り。
他と比べてどうにも平坦な印象を受けるんですよね。それでもあえて解釈に挑むならば、
メディスン・メランコリーというキャラの「背景の無さ」がポイントになるかもしれません。
彼女は他の妖怪と異なり、生まれて数年しか経っていない幼い妖怪です。
ゆえに設定上のバックグラウンドや他キャラとの関係性が極端に乏しい。
この作品がもたらす荒廃は、時間経過によるキャラ同士の関係性の磨耗や破綻によって
引き起こされているので、それがないメディスンには影響がなかったのかもしれません。
そういう意味では彼女は「キャラ」というよりは「風景」みたいな扱いなのかも。
だからこそのインスト曲なのでしょう。毒花畑にひっそり佇む毒人形の「風景」。
破綻も荒廃もないかわりに背景と同化した彼女は、ある意味では幸福なのかもしれません。

05-NeGa/PoSi*ラブ/コール
ヤンデレ化したこいしちゃんが暴走の果てにデッドエンドする話。
普通に読めば何の救いもない話ですが、『遙』で描かれる世界にあって、
こいしの未来とその末路を想像すればなるほどこうなるわな、という感じではあります。
『遙』の世界は幻想郷の荒廃と永遠が描かれた未来の世界。「ささぐうた」では
人間の死と輪廻が描かれ、「悠久の子守唄」では博霊の巫女の代変わりが描かれます。
地霊殿EXでこいしが出会い、初めて彼女に「目的」を認識させた異端の人間たちもまた、
幻想郷の予定調和を構成するパーツにすぎない。彼女の閉ざされた瞳と同様に、
この世界もまたどうしようもなく閉じている・・・こんな認識がこいしに芽生えたとき、
その絶望が唯一の身内であるさとりに向かうのは何となく分かる気がします。
曲中でこいしがしきりに唱える「アイ」という言葉。これはおそらく、
愛(=さとりの笑顔)とeye(=第三の瞳)とI(=アイデンティティ)、
すべての意味が込められています。「アイ」さえ得られれば、自分が失ったものが
きっと全部帰ってくると、必死にその幻想にしがみついているのでしょう。
もちろんすべてを含んだ「アイ」なんてのは言葉遊びの産物でしかなく、
そんな都合のいいものは存在しません。アイとは「i」・・・虚数のように儚い概念。
架空のアイに溺れた挙句さとりにもらったペット達を虐殺し「笑ってよねえ」と
さとりに迫り拒絶され壮絶な最期を迎えるこいし。普通に読めば悲惨な結末ですね。
「普通に読めば」ね・・・。

06-盲目の笑顔
うわあ・・・。ネガポジで酷い結末を描いておいてさらにこの追い討ちですよ。
この鬼!と言いたくもなるが、しかしどうしようもなく滅びの美学を感じてしまうのも
また事実。ゴシック調のアレンジと心の内で反響する悲鳴のようなクワイア・・・
退廃美とはこういうことなんでしょう。痛々しく縫い付けられた瞳と血痕、
それとは対照的にやわらかな微笑みを浮かべるさとりの姿は寒気がするほど美しい。
さとりが自身のことを「幸せです」と言ってしまっている時点で
この話はどうしようもなく終わっているんですよね。
凍る時間。永遠の静寂。古明地姉妹、そして地底世界の終わり。
前半部を締めくくるに相応しいどうしようもないラストですね!(満面の笑み)

07-あの日自分が出て行ってやっつけた時のことをまだ覚えている人の為に
インスト曲ですが、この曲が無ければ作品が成立しないと言っても過言ではないくらいの
超重要曲。位置付けとしては「悠久の子守唄」の前奏曲で、一線を退いた博霊の巫女が
過去を回想してる場面なんでしょうが、ここにラストワードの順番を模したメドレー形式の
アレンジをぶち込んでくるセンスが異常。最初聴いたときは「やりやがった!」って
思いましたね。これはただの回想ではありません。この曲こそが「極限」の発生装置。
ここまでに描かれてきたいくつかの終わりの形、それらがあるからこそ、メドレーで
次々と流れていく原曲のメロディに物語が付加される。ラストワードとは「遺言」という意味。
つまりは、ひとつひとつの原曲に対して作者がいちいち物語を設定せずとも、
聴き手が勝手に各曲の「終わり」を想像してしまうのです。「終末」の自動生成機構。
さらに中盤・・・よりによって「少女綺想曲」のところからメドレーパートが副旋律に
引っ込み、代わりに「東方妖怪小町」が主旋律に現れる。で、この主旋律、どう聴いても
「悠久の子守唄」のメロディが混合されています。それはつまり、個々の原曲が
紡ぐはずの物語を「悠久」が塗り潰している、ということ。
言うなればそれは、終末の一般化。 n=1,2,3......k の「......k」の表現です。
この曲があるからこそ、今作は「未来」から「永遠」へとステージを上げることが
できる。これだけの要素をインストで表現し切ったのはとんでもないことだと思います。
凋叶棕のアレンジスキル、センスが遺憾なく発揮された文句なしの会心の一曲。

08-悠久の子守唄
暴風のように流れ去る時の流れの中で、この瞬間だけは停止しているかのように
ゆったりと落ち着いた曲調。描かれた二人の巫女はどっちが霊夢、とかいう話ではなく、
「博霊の巫女とその後継」と判断すればいいでしょう。式は既に一般化されているのだから。
おそらくこの物語は幻想郷そのものが終わるその日まで、何回も何回も何回も何回も
繰り返されるのでしょう。そうして永遠を紡ぎだす。終わりがないのが終わり。
これもまた、極限を生み出すひとつのパーツですね。

09-そしていつかまた出逢って
前曲の流れから、成長した博霊の巫女の後継者が妖怪退治に乗り出す、
そして先代巫女が退治した妖怪たちとまた出逢う・・・って感じでしょうか。
中盤あたりに「悠久の子守唄」のメロディもぽつんと出てくるし。
この曲もまた「一般化」の後なので、誰と出会うかを考えることにあまり意味はないと
思います。原曲が原曲だし、イメージとしてはやはり幽香が浮かびますけどね。
しかし、妖怪視点でこの曲を考えたとき、彼女らは数十年のスパンで
次々と代変わりする博霊の巫女と何度も何度も何度も対峙することになるわけで、
そのときどういう感傷が湧くのだろう、と思うとなんとも虚しい気分になります。
7~9曲目はこの3曲で博霊の巫女を中心とした小さな円環ができています。
ここをぐるぐる廻り続けることで、永遠が作り出され、そして
「遙かなるもの」その極限へと至るのです。

10-devastator
devastator(破壊者)・・・無限の時の流れは、輝夜すらも破壊する。
永遠を手中にした蓬莱人ですらも完膚なきにまで破壊し尽くすこの曲は、
間違いなく今作が見せる「最果て」のひとつの姿です。輝夜が壊れた以上、
他の者たちがまともでいられるとは思えない。『遙』が見せる果ては、
世界から「キャラクター」を完全に排除した姿です。残ったものは、幻想郷の風景のみ。
「幻想郷の風景」がテーマみたいなことが書いてあるけど、やっていることは
「それ以外」のすべての破壊です。消去法的に残った「風景」それは果たして
ユートピアなのか、それともディストピアなのか・・・


さて、まだ2曲残ってますが切りがいいのでここで一旦筆を置きます。
というのも、「devastator」まででこの作品はひとつの完結が与えられているのです。
『遙』がはじき出した極限値のひとつ、それが「幻想郷の風景」。
これはこれで綺麗な結末です。しかし、今作に関してはそこがもうひとつの始まり。
この作品に関する感想や評価を見ていると「あまりに救いがなさすぎる」という
意見がちらほら見られました。確かにここで描かれるキャラたちの結末は悲惨です。
一切の容赦がない。けれど、考えてみてほしいのです。

凋叶棕は、何故かような「荒廃の未来」を描く必要があったのか?

ここまでの内容は布石にすぎません。
「Aurora」「うつろわざるもの」が見せる、もうひとつの果ての姿。
それこそが、私がこの作品を「一番」とみる最大の要因なのです。

Part.2に続く...

[同人音楽感想] 謡 / 凋叶棕


(2010/08)
凋叶棕

公式サイト

◆分類
東方アレンジ(ボーカル・インスト混合)
マルチジャンル

少女病のコンポーザーでお馴染み、RD-Soundsさんによる東方アレンジ4作目。
基本路線は前々作「宴」や前作「趣」と同様のマルチジャンルアレンジですが、
今作では「物語」をテーマとしたコンセプトアルバム風の作りになっているのが特徴。
そのため、これまでと比べてアルバム全体にストーリーの流れがあります。
無論、私はこういう作風のほうが二次創作らしさがあって好みですね。

特に、ラストの曲「忘れえぬ物語」がとても良い。
これまで語られた、あちこちに散乱した物語のカケラたちが、
最後に「稗田阿求」という語り手によって繋ぎとめられる、この構成に痺れます。
「マルチジャンル」というある種の雑然に、必然性を与えるっていうやり方がニクい。
こういうアプローチは他のボーカル系サークルも参考にしていいのではないでしょうか。

東方幻想板のスレッドなんかを見ていると、最近の凋叶棕の人気ぶりに
よく驚かされるのですが、今作を聴けばそれも納得というものです。
変化球気味のメロディラインに、ケレン味のきいた歌詞、
ハイセンスなブックレットの絵、そしてアルバムコンセプト…
最高峰の品質でありながら、あちこちに尖った要素が散りばめてある。
東方アレンジに慣れ親しんだ人であるほど、グサリとくるものがあるはず。
東方界隈がここまで円熟したからこそ、出てこられた作品と言えるのかもしれません。

◆曲の感想
01-水底のメロディ
芥川龍之介の河童のボーカルアレンジ。ちょいジャズっぽいバラード。
曲中で語られるのは悲恋の物語で、単体でみると孤独で、救いのない話です。
しかし、今作では稗田阿求という語り部の存在が示されています。
孤独のまま水底に沈み、忘れ去られていた物語を語ることで、救済を与えている。
アレンジ自体は地味な曲ですが、テーマを最も明確に示しているという点で、
作品内では重要な位置づけを占める曲だと思います。

03-ヤタガラスカイダイバー
死体旅行および太陽信仰のボーカルアレンジ。テクノポップでしょうか。
イントロに響くめらみさんの歌声が、「お空」の孤独感をよく表していますが、
一曲目とは対照的に、こちらは地上に飛び出し本物の太陽(=仲間)を見つけることで、
自力で救いを見出しているんですね。飛翔感のあるサビがとても心地いいです。
ブックレットの絵といい、歌詞の言葉遊びといい、色々な対比が込められていて
とにかく面白いアレンジですね。

05-Un-Demystified Fantasy
これは凄い。
何と「東方紅魔郷」のストーリーが、1曲の中で見事に語りきられています。
狂ったように舞い踊るベースドラムピアノギターバイオリンに導かれながら、
前半部では、徒歩二分の同人誌に出てきそうな鬼のような形相の霊夢が
異変の原因目指して猛進してくる様子が描かれ、
後半部では、霊夢とレミリアの高貴なダンスのような弾幕戦の様子が描かれ・・・
東方の燃え要素がたった5分の中に凝縮してぶち込まれている。
歌詞も歌唱も熱すぎる。「知識だけの七曜など歯牙にもかけぬ勢いで」とかたまらん。
そして何より素晴らしいのが選曲ですよ!
この内容を「Demystify Feast」でやりますか!!
いやー、キラーチューンにも程がありますよこの曲。
そんじょそこらのメタルアレンジでは到底太刀打ちできないこの熱さ。感服です。

07-胎児の夢
胎児の夢といえば言わずと知れた「ドグラ・マグラ」。
「胎児を胎児よ何故踊る~」のモロな引用とか、「アー」という表記の拘りとか、
バックのドラムンっぽい音がチャカポコのリズムに聴こえてきたりとか、
ネタを知ってると色々楽しめる曲ですね。
チャカポコリズムと叙情的なピアノとストリングス、
めらみさんの繊細な歌唱の絡みがとても美しく、中毒性のある曲です。
「無間の鐘」のアレンジとしては今のところ右に出るものが無いくらい気に入っています。
あとこの曲は一応、こいしの物語ということになっているようですが、
元ネタ「胎児の夢」の設定を鑑みるに、阿求の物語でもあるのかも?
とか考えたりもしました。妄想ですけど。

[同人音楽感想] 趣 / 凋叶棕


(2010/03)
凋叶棕

公式サイト

トラックリスト
01-眠れぬ夜は
02-昼下がりのユーフォーロマンス
03-マヱリベリヰ・ミステリシア
04-嫌われ者のフィロソフィア
05-有るまじき最終決戦のカタチ
06-\もっと!/\あたい/シャッフル!
07-ホンノタビビト(Instrumental)
08-ハカナキヒト?たちのために

RDさんの個人サークル、凋叶棕の3rd東方アレンジアルバム。
8曲中2曲がボーカルアレンジで、めらみぽっぷさんが歌っています。
本作の特徴は、とにかくバラエティが豊かなこと。
バラード、ゴシック、クラシック、ジャズ、メタル、ポップスなど様々なジャンルのアレンジが
アルバム一枚に収められています。全部が好み!ってわけにはなかなかいかないので、
通しで聴くよりは、好みに合った曲をチョイスして聴く、といった楽しみ方が向いているでしょう。

RDさんというと、自分の中では「少女病の曲を作ってる人」ってイメージが強くて、
「refrain」とか「虚空に消えるFairy tale」のような、過剰なまでの
ドラマティックさを持った曲作りを得意としている印象があります。
本作の中にもそういう曲はあって、それが5曲目の「有るまじき最終決戦のカタチ」
および8曲目の「ハカナキヒト?たちのために」です。
この2曲は個人的にどストライクでした。

「有るまじき最終決戦のカタチ」はあたかもRPGのラスボス戦のような
大仰なシンフォニック系の曲で、黒夜葬の曲をソフトにした感じ…とでもいいましょうか。
世界の命運を懸けた最終決戦!的な、勇壮さと悲壮さが同居した曲調がとてもツボ。
リードフレーズを奏でるシンセがちょいチープなのも、SFCっぽくて逆に味が出てますね。
最後に転調するのもお約束すぎてたまんないです。
曲名も皮肉が効いていて面白い。確かに世界観がなんか間違ってますしね。

「ハカナキヒト?たちのために」はキュートなポップスなんですが、疾走感のあるサビと、
一生懸命頑張ってます!って感じのめらみぽっぷさんの歌唱が合わさることで、
妙な哀愁が漂っていて、全然そんな歌詞でもないのに何故か泣ける曲になってます。
めらみぽっぷさんは色んな歌い方ができる方ですが、こういう歌い方が一番好きですね。
はっきり言ってかなり原曲破壊気味なんですが、
そんなことはどうでもよくなるくらいメロディが秀逸です。マジ泣ける。なにこれ。

RDさんのドラマティックな曲は、やはりやりすぎなくらいドラマティックでした。
こういう曲ばかり集めてアルバム作ったらものすごい作品ができそうですね。
もちろん本作は本作で様々な趣向に富んだいい作品ではあるんですが…
うーむ、次回はどういう作風で来るか。今から気になりますねー。
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Author:borozo

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